2013年6月8日土曜日

《私が子どもだった頃》川町内会 源波 修一郎

《私が子どもだった頃》川町内会 源波 修一郎

私は昭和19年に生まれ、昭和20年ころから40年以上、侍従川の近くの西大道で生活していました。20年くらい前に引っ越して、現在は六浦に住んでいます。これから、私の子どもの頃の思い出を書きたいと思います。

【侍従川は生きものがいっぱい】
昭和20年ころの侍従川の上流は、シミズガニやハヤ、山椒魚などが生息する清流でした。夏には、ゲンジボタルも多く飛んでおり、たくさん捕まえて蚊帳の中に放して楽しんだものです。今から思えば、ずいぶん風流な生活をしていたものだと思います。

侍従川は、蛇行していて護岸整備も十分でなく、自然の土手によって守られていたため、台風など大雨の時は、しばしば川が氾濫して床下浸水を起こしていました。西大道に大堰の水門があり田植えの時期にせき止めた時には、堰の上流の水たまりは水深2mほどとなり、水泳や木材や竹などで組んだイカダを浮かべて水遊びができました。しかし、現在のように下水道の整備ができておらず、生活雑排水をそのまま侍従川に流していたため、衛生的には良くなかったと思います。

また、堰の下流には滝壺のような深みがあり、夏には、ウナギやフナなどの夜釣りをして楽しみました。土手の穴にはウナギが潜んでいました。竹の棒にタコ糸と釣り針をつけて、ミミズを餌にして穴の奥まで差し込むとウナギが良く釣れました。天然のウナギなので、蒲焼きにすると大変おいしく、また、贅沢感を味わっていました。侍従川の周辺は田んぼが多く、現在の大道中学校も田んぼで、よく秋の稲刈り前にイナゴを取りに行き、甘露煮にして食べたものです。

【夜中の朝比奈切通の肝試しと鐘つき】毎年、大晦日になると友だちを連れ立って朝比奈の切通をカンテラをさげて、鎌倉の建長寺の鐘をつくために歩いて行きました。カンテラは、缶詰めの空き缶にローソクを立てて灯りとしたもので、今の懐中電灯のようなものです。夜の10時ごろに西大道を出発して12時過ぎに建長寺に到着しました。夜中の切通しは真っ暗で肝試しを兼ねていました。まだ朝比奈峠の道路が未整備でしたので、鎌倉に行くためには、逗子を回るか朝比奈の切通を通るしかありませんでした。除夜の鐘を突いたあとに、鎌倉八幡宮に初詣をして元旦を過ごしました。

【里山は子どもの遊び場】
子どものころは、学校から帰るとカバンを玄関に放り投げ、すぐさま野原にみんなが集まり、ソフトボールで日が暮れるまで泥んこになって遊びました。試合中に野原の近くの家にボールが飛び込んで、窓ガラスを割ったことがよくありました。その時は怒られましたが、どこかで許してくれた、おおらかな時代でした。

雑木山に隠れ家と称して、大きな木の中段に木や竹を蔓で組んだ山小屋ふうの建物を作り、蔓にぶら下がってターザンごっこで遊んだり、雑木をナイフで削って刀を作ったり、チャンバラごっこで遊んだりしました。また、竹藪から竹を取ってきて、竹馬や水鉄砲を作って遊んだり、正月用の門松を作ったりしました。

当時は、ご飯や煮物はかまどで煮炊きし、お風呂は五右衛門風呂でしたので、杉の葉や薪木を山から取ってきては、お小遣いをもらっていました。薪で炊くご飯のおこげは美味しくて、なつかしい思い出になっています。また、薪で沸かすお風呂は、お湯がやわらかく、体の芯まで温まりました。現代の温泉地にある露天風呂に入っているような気分でした。

【雑木林は山菜や果物の宝庫】
春は、侍従川の岸辺の土手や田んぼの畦には、セリ、ツクシ、ノビル、ヨモギなど香りの深い山菜を取り自然の春を感じていました。初夏は、山菜のゼンマイ、ワラビ、フキなどをたくさん採って、ご近所におすそ分けしたものです。
夏は、桑の実、木苺、サクランボなどがたくさんありました。今の鎌倉霊園のところに砲台山があり、周辺には山桜がいっぱい咲いてきれいでした。この桜が実をつけ紫色になると、弁当箱を持ってサクランボを取りに行き、口の中や服も紫色にし、帰ってからよく怒られました。砲台山は、地下には地下壕があり、子どもたちの格好の遊び場でした。

秋は、近くの山は山栗やアケビやカラスウリなどがいっぱいあり、ヒラタケやヒメジなどのキノコ狩りができました。山栗は、その場でイガと渋皮をむいて、茹でないで生でおやつとして食べました。アケビは、米びつの中へ入れて熟してから食べました。カラスウリは、足に塗ると、かけっこが速くなると言われていましたので、運動会の前にはよく取りにいきました。

初冬は、自然薯堀りに行き、笹で2、3本つつんで帰ることもありました。自然薯は土の中を深く根を張るように成長しているので、掘った穴の中に、頭を突っ込みながら芋を折らないように慎重に堀りました。大きな自然薯が完全に掘れると、達成感を味わえたものです。掘った穴に頭を突っ込むと、土の香りが何ともいえない温かみと癒しを与えてくれました。自然薯は麦とろろごはんが何と言っても一番おいしく、立派な自然薯は、お正月まで庭に埋めて保存しました。

【懐かしい人との出会い】
西大道に住んでいた昭和20年代は、今の金沢八景ー原宿線の道路はまだ総武隧道が開通したばかりで、砂利道を農家の高橋さんというおじさんが本郷から牛車に野菜をつんで売りに来ていました。今は公園になっていますが自宅前が広場でしたので、おじさんがそこで牛を休ませていました。牛は、のんびりと雑草をついばんでいました。

それから60年が経った現在、私が定年になってから、六浦の長生寺の壮年会に入り、鎌倉組の壮年会理事会の高橋理事長が前述の高橋さんというおじさんのご子息であることがわかりました。そう言われてみると、確かに父親の面影があります。西大道の昔の話をしているうちに、ご当人も牛車で子どもながら一緒に来ていたことが分かり、互いに懐かしい人との出会いに感激したものでした。

【おわりに】
侍従川を中心に私の子どものころは、自然豊かな中で、毎日サバイバルゲームをしているような時代であったと思います。近隣の雑木山や里山が開発され、私が子どもだった頃の自然環境を今の子どもたちが味わうべきもない姿になってしまった現在、せめて侍従川を昔の清流に甦えらせて、その名残を残してほしいと祈念しております。

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